ブログ 2023年05月の記事一覧
2023年 5月 31日 学校と東進の両立方法!
こんにちは!!
担任助手1年 飯田早紀です!
最近雨が多くて髪の毛がぱさぱさになるのでガン萎え中です、、、
良いヘアオイルがあったら教えてください、、、笑
今回は学校と東進の両立方法について書きます!
①時間面での両立
まずは時間の使い方です!
結論から言うと、とにかく「起きている時間はすべて勉強にあてる」
ということです、、、初っ端から厳しい文言ですね、、^^
起きている時間というのは、学校にいる時間、東進で勉強している時間のほかに、
具体的に言うと
・通学時間
・学校から東進に行くまでの時間
・夜寝る直前 など、、、
1日のスケジュールから空いている時間を書き出してみると案外時間は見つかるものです!
もちろん学校のテストやその他習い事があって大変だと思うのですが、
1時間、10分、1分でも、積み重なれば莫大な時間が生まれるし
そのたった数分の差で運命が変わったりもします。
隙間時間というのは簡単には侮れないですね、、、
②学習面での両立
次に学習面です!
よく、東進と学校での勉強を分けてとらえる人を見かけます(>_<)
しかし、教わり方、演習方法は違くとも受験までに修得する必要のある内容はみな一緒です!!
学校で教わったことを東進のテキストで確認しなおしたり、逆に
東進で習ったことを学校の問題集で解きなおしてみたり、
学校と東進のどちらかに依存してしまうのではなく双方をうまく活用しましょう!
やらなくてはいけないことが多くて大変な時期かと思いますが
応援しています!!!♡
2023年 5月 30日 学校と東進の両立の仕方
最近は雨が多くなってきてムシムシジメジメしてきましたが、皆さんシムシムメジメジ頑張っていきましょう!!
傘を持つ機会が多くなってきていますね。閉館アナウンスで「傘を忘れず持って帰りましょう」と自分で言ったのにもかかわらず帰りに傘を忘れて帰ってしまいます(笑)
こんにちは!担任助手1年の稲荷望太です!!
僕は今、明治大学の商学部に通っています!
今日は学校と東進の両立について話していこうと思います!
学校と東進の両立について個人的に1番いい方法はとりあえず校舎に来ることだと思っています!
校舎に来れば勉強できる環境が整っていて、受講できたり、他の人たちも頑張って勉強しているので参考書の1ページくらい開く気になれます!担任助手と会話するだけでも校舎に来る価値はあると思います!
自分自身学校生活は忙しい方で、特に部活は引退時期も遅く、練習もハードだったので時間がなく勉強できるコンディションも悪かったのですがとりあえず部活終わりなど遅い時間でも、少しでも校舎に行くことをしていました!また、ちょうど1年前のこの時期の1ヶ月間は体育祭期間で、自分は団長を務めていたのでそっちのやらなければいけないことも多くてなかなか勉強出来なかったけれどなるべく勉強時間が0分にならないようにしていました(笑)
他の塾とは違って東進には担任助手がいて、その人たちと話すだけでも元気を貰えたりするので校舎に来てこそ東進の良さが発揮されると思うので勉強に躓いたり、学校や部活で忙しくても是非東進に来てみてください!!
明日は飯田担任助手の学校と東進の両立についてです。お楽しみに!!
2023年 5月 27日 学校と東進の両立方法
両立する上での障害とは
学校と東進の両立ができないと東進コンテンツの進捗が遅くなってしまいます。
両立ができない具体的な状況を挙げてみると、
①学校のテストで東進の学習が止まってしまう
②学校の授業の復習で忙しくて東進コンテンツが進まない
③学校で内職しないと東進の受講の予習・復習サイクルが上手く回せない
④部活で帰ってきたら疲れて受講をできない
⑤部活で一日休みがつぶれて勉強ができない
⑥学校の宿題が多すぎて東進の受講などができない
などがあります。
仕方のない要因は割り切って受け入れる
両立に悩んでいる方がまず一番最初にやるべきことは、解決しようもない仕方の無い要因で自分が悩んでしまっていないか考え、もしそうならそれについて悩むことをやめることです。
勉強時間の少なさや部活後の辛さは、実は「悩み」ではなく受け入れるべき「事実」です。「どう悩みを解決するか」ではなく、「その事実の下で何をするべきか」を考えるべきです。
試験などと違い、現実には解決不可能な問題がたくさんあります。辛いとぐちをこぼすのは全然良いことですが、それの解決法をうんうん唸っていても仕方がありません。仕方の無い制約の中でいかに集中して学習が出来るか考えましょう。
①,②学校のテストや復習で東進の学習が止まってしまう
テスト・復習で時間が取られるのは仕方がありません!自分がテストにどのくらい力を入れたいか・入れるべきかを考慮し、テスト何週間前までは東進、それ以降は割り切ってテストを頑張る。テストの日程は事前にわかっているので、それを踏まえた計画も事前に立てておきましょう。復習の場合も、自分は学校の勉強にどれくらい力を入れたいのかを考え、一日に割く時間を考え、その時間は割り切って集中して復習して、それ以外でいかに集中してやれるよう頑張りましょう。
こういう系はいかに割り切って割く時間をしっかり考えられるかが重要です。
③学校で内職しないと東進の受講の予習・復習サイクルが上手く回せない
内職=悪とは必ずしも言えないような気もしなくもない、かなと言う感じです。東進の勉強と学校の勉強それぞれが自分にとってどれくらい大事なのかを考え、本当に内職が必要ならどのくらい割くのかを考えてしっかり集中してやりましょう。
④部活で帰ってきたら疲れて受講をできない
部活お疲れさまです!私も部活がんばった日は休みたいです。しかし、受験はそう甘いものではありません。辛い中でも頑張った人間が、辛い中で頑張れなかった人間を追い抜いて合格してゆくのです。もちろん部活以外の時間でしっかり休むとか、そういう話もありますが、結局は自分がどれほど志望校に受かりたくて、どれだけ頑張れるかの気持ちの問題だと思います。
⑤部活で一日休みがつぶれて勉強ができない
部活をやっている以上は当たり前!割り切って、たまにある休みをフル活用して勉強しましょう!愚痴はいつでも聞きますが、解決策などありません!限られた時間内でどれだけ頑張れるかが勝負です。妥協しなければ、部活と受験を両立することは絶対に可能なのです。部活がない子と同じ量頑張ろうというよりは、今自分が出来る最大限の努力をしましょう。
限られた時間内で集中して頑張ると割り切るのが解決策
時間が無い、質が担保できない。こういったものを完全に解決する魔法は、存在しないと私は考えています。そして、悩んでいる本人も答えはみつからないことを分かっていると思います。現状でどのくらい集中して頑張れるか、の方針で行きましょう。
明日のブログは鈴木担任助手の「大学・学部紹介」です。明日は模試があるため、1号館2号館ともに終日受講・自習不可です。
2023年 5月 26日 文科構想学部でやっていると
こんにちは!わたくし早稲田大学文化構想学部の高瀬一道です!
大学、学部紹介とのことですがそんな広い話をすることができないので今日は「大学で私がなにを勉強しているのか、についてお答えしていきたいと思います!
私は大学で主に哲学を専攻しています。
哲学というと非常に堅苦しい学問と思われがちですが、私の文科構想学部では「領域を横断し新しい学問を生み出す」ことを目標にしているので、実はそこまで既存の型にとらわれていません!
哲学で言うと、ソクラテスやカントという感じではありません、、今回はより実感を持ってもらうため自分の実際書いたレポートを共有します!
私が幼いころの話であるが公園の水飲み場に1匹のカマキリがいた。カマキリはふらふらと水飲み場あたりを周回していたが不意に動きを止め天を仰いだ。瞬間カマキリの腹から細長く黒い何かがぬめりと出てきてのたうちまわった。その後カマキリはゆっくりと息絶えた。これはハリガネムシという寄生虫が宿主から脱出する場面であるが私はこの鮮烈な光景を今でも忘れることができない。この忘れることができない原因として一連の出来事の中に私が「美」を見出したからであるということが挙げられる。では一連の出来事のどこに美が見出されたのか。私は「カマキリが死ぬ」ことが美的体験の中核にあると考える。死は殺人や災害などと結びながら芸術作品の題材としても多く扱われる。死は本来忌むべきものとされ、生活から切り離されるが芸術活動においてはとりわけ歓迎される。ではなぜ美と死は結びつくのだろうか。今回は梶井基次郎の「桜の樹の下には」とフランスの哲学者ジョルジョ・バタイユの主張を用いながら美と死の関係について考えていきたい。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!(「桜の樹の下には」)
という大胆な主張から始まる「桜の樹の下には」では死の醸し出す香気について考察がなされている。桜のあまりにも神秘的な美しさに恐怖すら抱いていた主人公は上記の主張を用いて桜の美しさを納得する。
おまえ、この爛漫らんまんと咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。(「桜の樹の下には」)
ここでは死体とその腐敗から流れ出る水晶のような液をいっぱいに含んだ木が桜の美を作り上げていると主人公は考える。また、作品内で主人公は自身の美的体験を引き合いに桜の下に死体が埋まる理由を示唆する。
二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰わした。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発あばいて屍体を嗜む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。(「桜の樹の下には」)
一面に浮かぶ何万匹ものウスバカゲロウの死体に主人公は「胸が衝かれるような」体験をする。ウスバカゲロウのおびただしい死の上に生まれた光景に神秘的で狂気的な美しさをみたのである。この体験をもとに主人公は「桜の下に死体が埋まっている」という主張を練り上げるため、ここではウスバカゲロウの光景に見た美と桜が醸し出す美が同種のものであると主人公が考えていることがわかる。作品内ではこれに対比するイメージについても言及される。この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない(「桜の樹の下には」)
鳥や陽光、若芽などは一般的には春や生命のイメージを伴い歓迎されるが主人公は「もうろうとした心象」と一蹴する。一方で桜やウスバカゲロウはその美しさに評価がなされるがこれは桜やウスバカゲロウは潜在的に死を予期させる生物であることが関係するだろう。桜は満開になった瞬間には既に散ることを始めウスバカゲロウは孵化後1週間やそこらで死ぬことで知られている。主人公の価値体系の中では死や腐敗、それを醸す桜やウスバカゲロウは上位にあり、生命を象徴する春や若芽、鳥などは下位に置かれる。
梶井基次郎は自身も結核を患い死に向かう存在であるからか、このような死と腐敗の美への転化を見事に書き出したが、死と美の関係性についての直接的言及はなされていない。
そこでフランスの哲学者ジョルジョ・バタイユの思想を用いて「なぜ死が美へと転化されるのか」について詳しく考えていきたい。バタイユはニーチェに影響を受けながら生と死と性と美について独自の思想を展開したがここでは「聖なるもの」という概念を用いて考えていきたい。「聖なるもの」はルドルフ・オットーから着想を得て考え出された概念だ。彼によると聖なるものは
人を戦慄させ、畏怖させ、不安に陥れると同時に、人を魅了し、引きつける何ものかなのだ。
奇怪なるものであって(人々が)慣れているもの、理解できるもの、親しめるもの、したがって精通しているものの領域から脱出していて、それらに対立しており、そのゆえに人間の心情をまったく驚きをもってみたすものである。(「バタイユ入門」)
とされている。ここで言われているように「聖なるもの」とは異質で不快であると同時に引き寄せ魅了する両義的な性質を持って立ち現れる崇高さ、神秘性、狂気のようなものである。この両義性を持つ聖なるものは「桜の樹の下には」において主人公が桜やウスバカゲロウから受け取った、「残虐な喜び」や「神秘的な不安」と同じ性質を持っているように思われる。聖なるものは決して客体の中にはなく、もしくは事物そのものではなく主体の意識の中にのみ現れるものとしている。ここでは聖なるものは「美」それも不安や畏怖と神秘性、引力の両義的な性質も持つ美として扱うことができる。
では聖なるものはどのようなときに我々のなかに現れるのか、バタイユは以下のように主張している
聖なるものは曖昧な極限状況にしか現れないのであって、完全なる死は死体という1個の実体の勝利でしかなく、聖なるものは死体に回収されて消滅するのである。「死をみつめる」ことには曖昧な限界状況を増幅させる効果がある。死を意識することによって、不安がいっそう募り、主体の内側に宿る力が嵐のごとく荒れ狂いだすのである。バタイユは人間の内部に力の激流を感じており(中略)その条件は人間を滅ぼすことではなく、滅びつつかつ存在し続けるという曖昧さにあった。(「夜の哲学」)
聖なるものは平穏や調和の中には現れることはなく死のような極限の状態によってのみ現れるが、完全な死によってもまた失われる。そのため自己の死や逆に死とは無縁の平穏では見ることが出来ない。死と生の境界を絶妙に行き来すること、桜やウスバカゲロウなど死を予期させる存在と邂逅した瞬間の死を見つめる体験が聖なるものを立ち現れせる。
しかし死のどのような要因が聖なるものへと作用するのか、バタイユは聖なるものが現れる要素として死や近親相姦などを「禁じること」としてまとめ挙げている。
フロイトはそのなかで、見ること、触れることを社会的に禁じられた事物を取り上げ、これに対する人間の矛盾した心理、アンヴィヴァレントな感情を問題にしている。この場合禁じられた事物とは、不潔で危険で醜いもの、例えば人の死骸である。人間は、これを恐れ、嫌悪する感情を持つ反面、これに触れてみたい、これを間近で見てみたいとする心理を無意識に持っている。言い換えれば、この事物は、人間を恐怖感、嫌悪感で遠ざける力(斥力)を発すると同時に、人間を引き寄せる力(牽引力)を放っている。(「バタイユ入門」)
「禁止する」ということは、禁じられたことはしない、断念してしまうということではない。そうではなく、一方で「制限」に服従させ「規範」づけながら、他方でそれを破るという様態で挙行することだ。禁じられたことを敢えて破り、侵犯することである。ひとたび拒否され遠ざけられた部分は、その「禁じられた」という感情によって不思議な魅力を付加され、いっそう欲望をそそるものとして呼び戻される。(「バタイユ消尽」)
死や近親相姦などはタブーとされ禁じられ忌み嫌われる。理性を獲得した人間はこれらの事象を社会の制約として遠ざけ、拒否する。だが拒否されたことによってこれらは一方で非理性的と感じるのはそのままにどこか特殊で聖性を帯びることになる。
死や腐敗が美と結びつき芸術などで多く扱われるのは死や死の意識が、不安と恐れ、魅力と神秘という両義性を孕んだ聖なるものを感受者に対して喚起させるからだと言えるだろう。また死にそのような性質を与えるのは我々の死を遠ざけ禁じる社会的な仕組みから生まれていることも検討する必要がある。
こんな感じです、、、参考にしていただければ幸いです!
明日のブログは村井担任助手です!!見てください!
2023年 5月 25日 大学学部紹介
最近暑い日々が続いていますね、、、
みなさんいかがお過ごしでしょうか?
僕は、ひたすら走っています。
先週1週間のうち6日ジムに行っていました。
ジムも、大学のジムと新百合ヶ丘のジムの二つ契約しています。
やる気が違いますよね。
今日も、打田元担任助手と新百合で、合同トレーニングをする予定だたのですが、
ジムがお休みだったので、二人で回転寿司を食べて勤務に来ました。
こんにちは、早稲田大学文学部考古学コースの林聖太です!
今日は、大学学部紹介です!
志望校選びをしている高校1年生や
志望校選びをしている高校2年生、
さらには、志望校選びをしている高校3年生の皆さんの参考になればと思います!
一生懸命書くので、最後まで読んでもらえると嬉しいです、、!
①早稲田大学とは?
早稲田大学は、「わせだだいがく」と読みます!
東京専門学校として、大隈重信という政治家によってつくられ、
慶應義塾大学と並び、日本で最初に生まれた私立大学です。
伝統がすごいですよね!
②大学の特徴
また、OBやOGに名だたる人物を多く輩出しているんです!
現総理大臣の岸田さんも、早稲田大学法学部のご出身なんです!
他にも、ハンカチ王子!
ひょっこりはん
村上春樹
小島よしお
くり~むしちゅ~ 上田
広末涼子
高瀬一道
(※敬称略)
政治や芸能等、様々な文化に優れた人物を輩出しているんです!
これらからもわかる通り、早稲田大学は、色々な人がいて刺激がたくさんです!
そんな様子からよく「人種の坩堝」(じんしゅのるつぼ)と言われます。
日本の学校は、大学で一気に人脈が広がり、様々な人種と関わる傾向がありますが、
早稲田大学は、その傾向が顕著だと思います!
学生数も、全国の大学2位だそう!
なので、早稲田に入れば、ザ・大学と言った生活が送れると思います!
③文学部
文学部は、日本の近代文学の祖「坪内逍遥」が作った学部と歴史が深いんです!
文学・歴史学・哲学から、人間とは何かを日々研究しています。
早稲田の文学部について話し始めたら止まらないのですが、
ひとつ言えるのは、「堪らない空気感」が最高ということです。
気になったら、是非調べたり足を運んでみてください!
明日のブログは、
高瀬担任助手による、
大学学部紹介です!
お楽しみに!!