文科構想学部でやっていると | 東進ハイスクール 新百合ヶ丘校 大学受験の予備校・塾|神奈川県

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2023年 5月 26日 文科構想学部でやっていると

こんにちは!わたくし早稲田大学文化構想学部の高瀬一道です!

大学、学部紹介とのことですがそんな広い話をすることができないので今日は「大学で私がなにを勉強しているのか、についてお答えしていきたいと思います!

 

私は大学で主に哲学を専攻しています。

哲学というと非常に堅苦しい学問と思われがちですが、私の文科構想学部では「領域を横断し新しい学問を生み出す」ことを目標にしているので、実はそこまで既存の型にとらわれていません!

哲学で言うと、ソクラテスやカントという感じではありません、、今回はより実感を持ってもらうため自分の実際書いたレポートを共有します!

 

私が幼いころの話であるが公園の水飲み場に1匹のカマキリがいた。カマキリはふらふらと水飲み場あたりを周回していたが不意に動きを止め天を仰いだ。瞬間カマキリの腹から細長く黒い何かがぬめりと出てきてのたうちまわった。その後カマキリはゆっくりと息絶えた。これはハリガネムシという寄生虫が宿主から脱出する場面であるが私はこの鮮烈な光景を今でも忘れることができない。この忘れることができない原因として一連の出来事の中に私が「美」を見出したからであるということが挙げられる。では一連の出来事のどこに美が見出されたのか。私は「カマキリが死ぬ」ことが美的体験の中核にあると考える。死は殺人や災害などと結びながら芸術作品の題材としても多く扱われる。死は本来忌むべきものとされ、生活から切り離されるが芸術活動においてはとりわけ歓迎される。ではなぜ美と死は結びつくのだろうか。今回は梶井基次郎の「桜の樹の下には」とフランスの哲学者ジョルジョ・バタイユの主張を用いながら美と死の関係について考えていきたい。

桜の樹の下には屍体が埋まっている!(「桜の樹の下には」)

という大胆な主張から始まる「桜の樹の下には」では死の醸し出す香気について考察がなされている。桜のあまりにも神秘的な美しさに恐怖すら抱いていた主人公は上記の主張を用いて桜の美しさを納得する。

 おまえ、この爛漫らんまんと咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪たまらなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。何があんな花弁を作り、何があんな蕊を作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。(「桜の樹の下には」)

ここでは死体とその腐敗から流れ出る水晶のような液をいっぱいに含んだ木が桜の美を作り上げていると主人公は考える。また、作品内で主人公は自身の美的体験を引き合いに桜の下に死体が埋まる理由を示唆する。

二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰わした。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発あばいて屍体を嗜む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。(「桜の樹の下には」)

一面に浮かぶ何万匹ものウスバカゲロウの死体に主人公は「胸が衝かれるような」体験をする。ウスバカゲロウのおびただしい死の上に生まれた光景に神秘的で狂気的な美しさをみたのである。この体験をもとに主人公は「桜の下に死体が埋まっている」という主張を練り上げるため、ここではウスバカゲロウの光景に見た美と桜が醸し出す美が同種のものであると主人公が考えていることがわかる。作品内ではこれに対比するイメージについても言及される。この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない(「桜の樹の下には」)

鳥や陽光、若芽などは一般的には春や生命のイメージを伴い歓迎されるが主人公は「もうろうとした心象」と一蹴する。一方で桜やウスバカゲロウはその美しさに評価がなされるがこれは桜やウスバカゲロウは潜在的に死を予期させる生物であることが関係するだろう。桜は満開になった瞬間には既に散ることを始めウスバカゲロウは孵化後1週間やそこらで死ぬことで知られている。主人公の価値体系の中では死や腐敗、それを醸す桜やウスバカゲロウは上位にあり、生命を象徴する春や若芽、鳥などは下位に置かれる。
梶井基次郎は自身も結核を患い死に向かう存在であるからか、このような死と腐敗の美への転化を見事に書き出したが、死と美の関係性についての直接的言及はなされていない。

そこでフランスの哲学者ジョルジョ・バタイユの思想を用いて「なぜ死が美へと転化されるのか」について詳しく考えていきたい。バタイユはニーチェに影響を受けながら生と死と性と美について独自の思想を展開したがここでは「聖なるもの」という概念を用いて考えていきたい。「聖なるもの」はルドルフ・オットーから着想を得て考え出された概念だ。彼によると聖なるものは

人を戦慄させ、畏怖させ、不安に陥れると同時に、人を魅了し、引きつける何ものかなのだ。
奇怪なるものであって(人々が)慣れているもの、理解できるもの、親しめるもの、したがって精通しているものの領域から脱出していて、それらに対立しており、そのゆえに人間の心情をまったく驚きをもってみたすものである。(「バタイユ入門」)

とされている。ここで言われているように「聖なるもの」とは異質で不快であると同時に引き寄せ魅了する両義的な性質を持って立ち現れる崇高さ、神秘性、狂気のようなものである。この両義性を持つ聖なるものは「桜の樹の下には」において主人公が桜やウスバカゲロウから受け取った、「残虐な喜び」や「神秘的な不安」と同じ性質を持っているように思われる。聖なるものは決して客体の中にはなく、もしくは事物そのものではなく主体の意識の中にのみ現れるものとしている。ここでは聖なるものは「美」それも不安や畏怖と神秘性、引力の両義的な性質も持つ美として扱うことができる。

では聖なるものはどのようなときに我々のなかに現れるのか、バタイユは以下のように主張している

聖なるものは曖昧な極限状況にしか現れないのであって、完全なる死は死体という1個の実体の勝利でしかなく、聖なるものは死体に回収されて消滅するのである。「死をみつめる」ことには曖昧な限界状況を増幅させる効果がある。死を意識することによって、不安がいっそう募り、主体の内側に宿る力が嵐のごとく荒れ狂いだすのである。バタイユは人間の内部に力の激流を感じており(中略)その条件は人間を滅ぼすことではなく、滅びつつかつ存在し続けるという曖昧さにあった。(「夜の哲学」)

聖なるものは平穏や調和の中には現れることはなく死のような極限の状態によってのみ現れるが、完全な死によってもまた失われる。そのため自己の死や逆に死とは無縁の平穏では見ることが出来ない。死と生の境界を絶妙に行き来すること、桜やウスバカゲロウなど死を予期させる存在と邂逅した瞬間の死を見つめる体験が聖なるものを立ち現れせる。

しかし死のどのような要因が聖なるものへと作用するのか、バタイユは聖なるものが現れる要素として死や近親相姦などを「禁じること」としてまとめ挙げている。

フロイトはそのなかで、見ること、触れることを社会的に禁じられた事物を取り上げ、これに対する人間の矛盾した心理、アンヴィヴァレントな感情を問題にしている。この場合禁じられた事物とは、不潔で危険で醜いもの、例えば人の死骸である。人間は、これを恐れ、嫌悪する感情を持つ反面、これに触れてみたい、これを間近で見てみたいとする心理を無意識に持っている。言い換えれば、この事物は、人間を恐怖感、嫌悪感で遠ざける力(斥力)を発すると同時に、人間を引き寄せる力(牽引力)を放っている。(「バタイユ入門」)

「禁止する」ということは、禁じられたことはしない、断念してしまうということではない。そうではなく、一方で「制限」に服従させ「規範」づけながら、他方でそれを破るという様態で挙行することだ。禁じられたことを敢えて破り、侵犯することである。ひとたび拒否され遠ざけられた部分は、その「禁じられた」という感情によって不思議な魅力を付加され、いっそう欲望をそそるものとして呼び戻される。(「バタイユ消尽」)

死や近親相姦などはタブーとされ禁じられ忌み嫌われる。理性を獲得した人間はこれらの事象を社会の制約として遠ざけ、拒否する。だが拒否されたことによってこれらは一方で非理性的と感じるのはそのままにどこか特殊で聖性を帯びることになる。

死や腐敗が美と結びつき芸術などで多く扱われるのは死や死の意識が、不安と恐れ、魅力と神秘という両義性を孕んだ聖なるものを感受者に対して喚起させるからだと言えるだろう。また死にそのような性質を与えるのは我々の死を遠ざけ禁じる社会的な仕組みから生まれていることも検討する必要がある。

 

 

こんな感じです、、、参考にしていただければ幸いです!

 

明日のブログは村井担任助手です!!見てください!